「見る」こととは何か。真偽を問うことすらもはやないような情報が溢れかえり、過激化、二極化や孤立化が進む現代において、目の前で起こっていることのすべてを説明できる人はいないはずです。それは、社会的、文化的、人種的、宗教的、言語的、性別的な背景や経験、その瞬間の感情、信念などによって、見る人によって大きく異なります。人は物事を認識し理解し見える形にするために、そこに意味や記号を探し求めます。つまり、無意識のうちにさまざまな物事を自分の固定観念に従って解釈しようとするのです。では、理解できないもの、受け入れがたいもの、知識を反映できないものに直面したとき必要なのものは何でしょうか。事実を捻じ曲げたり、自分の都合の良いように解釈することなく、さまざまな可能性を知りそれを判断するために必要なものは何でしょうか。それは想像力であるべきです。
私は、映像・写真・音といったタイムベースドメディアを用い、鑑賞者の認識を一時的に混乱させ、ステレオタイプではなく、多様な視点や視座につながる想像力で解釈するよう仕向けます。それは鑑賞者を一時的に盲目にすることを目指しているとも言えます。そしてその状態から何かを「見る」ことを促します。そのためには、作品そのものが常に見える必要はなく、もしかすると作品がその場に存在すらしていなくてもよいのかもしれません。作品はそれだけで完結するものではなく、あらゆる解釈に対して開かれていなければいけません。「見る」ことは、物事が現れるのと同時に意味を付加しようとする行為との曖昧な境界に立ち臨むことです。つまり、再解釈し続ける行為であり、想像力を持ち直面しているものに対して常に多様な視点を更新し続ける行為です。
物事が「見る」ことそのものでありうるべく、私は作品を制作します。