STATEMENT

「見る」こととは何か。過激化、二極化や孤立化が進む不確実な現在の世界において、目の前で起こっていることのすべてを説明できる人はいないはずです。それは、社会的、文化的、人種的、宗教的、言語的、性別的な背景や経験、その瞬間の感情、信念などによって、見る人によって大きく異なります。私たちは、その物事を認識し、理解し、見える形にするために、そこに意味や記号を探し求めます。未知のままにしないためには、既知の情報を付加することは避けられません。つまり、私たちは常に、記憶として呼び起こされる過去によって現在のものを解釈しているとも言えます。では、理解できないもの、受け入れがたいもの、知識を反映できないものに直面したとき、私たちに必要なものは何でしょうか。それは想像力であるべきです。


私は、映像/写真/音といったタイムベースドメディアを用いて、鑑賞者の認識を一時的に混乱させ、ステレオタイプで解釈しないように仕向けます。非合理的、非機能的で非生産的な目的のない行為を設定したり、全くかけ離れた要素を混ぜ合わせたりすることで、鑑賞者を一時的に盲目にすることを目指しているとも言えます。そしてその状態から何かを「見る」ことを促します。そのためには、作品そのものが常に見える必要はなく、もしかすると作品がその場に存在すらしていなくてもよいのかもしれません。「見る」ことは、物事が現れるのと同時に意味を付加しようとする行為との曖昧な境界に立ち臨むことです。つまり、「見る」という行為は、再、再、再…再解釈する行為であり、想像力を持ち、直面しているものに対して常に多様な視点を更新し続ける行為です。


物事が「見る」ことそのものでありうるべく、私は作品を制作します。

May 2021